長かった2ヶ月間

2001年10月25日
明日、病院に行きます。
紹介してもらっていたカウンセリングの病院の予約が一杯で
9月の初めに電話を掛けたのに、最初の診療が10月26日と
言われてしまったのです。
2ヶ月間、本当に長かったです。
何しろ、二人とも治らなければ
一緒には暮らせない、と言われているのですから
一日でも早く立ち直りたいと思っているのです。
夫からの手紙で、夫もカウンセリングに通っていることを知りました。
手紙には「治ったらまた一緒にやり直したい」と書いてありました。
だから、私も頑張らなければ、と思うのです。
その言葉を支えにして、頑張れると思います。
まずは、明日 病院に行って、カウンセリングを受けられるかどうか
診療してもらうことになるそうです。

それにしても、何も出来ずに待っているだけの2ヶ月間は
とても長く感じました。
バイトをしたり、DVに関する本を読んだりはしていましたが
夫の側の状況が分からないままだったので
「お前がいくら戻りたいと思っても
○○さんがもう一緒にやって行けない、と言ったら
どうするつもりなの?」という両親の言葉に
「夫がそんなことを言う訳がない!」と思いながらも
辛い思いをしていました。
でも、夫からの手紙を読んで、とても前向きな気持ちになれて
カウンセリングも頑張って受けてみよう、と思えました。

父は、また夫の元に戻れる日を心待ちにしている私に
不思議そうに尋ねます。
「そういう時 お前は、○○さんに暴力を振るわれたことは
忘れてしまっているのか?」と。
私は、暴力を振るわれたことは覚えています。
怖かったことや痛かったことも
その直後には忘れてしまっていたこともありましたが
今ではちゃんと思い出して、しっかり覚えています。
それでも、私はどうしても夫と一緒にやり直したいのです。
殴られて痛かったこと、怖かったこと、みじめだったことは
確かに沢山ありました。
でも、トータルで考えて、夫と一緒にいた1年4ヶ月の間
辛いことよりも楽しいことの方が多かったのです。
私の母は「家(夫と住んでいた家)にいて、毎日毎日
『殴られるかも知れない』と不安になったり
生活費を貰えなくてお金のやりくりに困ったりしているより
ここ(実家)にいて暴力やお金の心配をしないで暮らす方が
よっぽどいいじゃない?」と言います。
親としては、もっともなことだと思いますし
実家にいれば、暮らして行くためのお金の心配をしなくても済みます。
これは、とても恵まれていることだと思います。
というのも、夫の暴力から逃れたくて実家に相談したけれど
実家の両親に「あんた1人増えたら、食い扶持が増えて
とてもじゃないけどやって行けない」と言われてしまった、という話を
聞いたことがあるからです。
確かに、DVの被害に遭っていて、命からがら逃げ出した人は
すぐに働いたり出来ないと思います。
私も、出て来た直後は、近くに買い物に行ったりすることも出来ず
いつも当たり前のようにやっていたことが
とても困難になってしまっていました。
もしも実家に余裕がなかったら、時々バイトに行くだけでは
済まなかったと思います。
ゆっくり治療に専念するためにも
このことは両親に感謝しなければなりません。

とにかく、まずは明日の診療です。
だんだん、少しずつ緊張して来ました。
1日も早く夫と暮らせる日を夢見て頑張ろうと思います。

「お土産箱」

2001年9月28日
夫と離れての生活は、味気ないものです。
時折、暴力を振るわれた時のことを思い出して怖くなったりもします。
それでも、私にとって夫は必要な人なのだと思います。
今でも、何を見ても何をしても、夫のことばかり考えてしまいます。
そのことは、時には辛いことでもありますし
(実際は夫が傍にいないから)
時にはとても心強い気持ちになることもあります。

突然 家を出て来た私のために、叔父が夫に連絡を取ってくれて
差し当たり必要な物を私の実家に送ってくれるように
頼んでくれました。
何日かの間、夫から音沙汰が無かったので、私の両親達は
「もう諦めなさい。あの人は勝手に家を出て来たあなたのことを
許せないでいるのかも知れないよ」と言いました。
でも、私は夫のことをある程度は分かっているつもりだったので
「きっと、頼んだ物が見付からなくて手間取っているか
中に入れる手紙を書こうとして困っているか
(夫は、メールは書くけれど手紙は苦手だと常々言っていたので)
そのどちらかだろうと思っていたので、気長に待つことにしました。
暫くして、夫から小包が届きました。
その中には、頼んだ物の他にも色々と
夫の思いやりが伝わって来るような物が沢山 入っていて
私はとても嬉しくなりました。
中でも、二人でいつも日曜日の朝に楽しみに見ていたアニメの
キャラクターの人形が付いているお菓子の箱を見付けた時には
胸がじ〜んとして、涙が出そうになりました。
「あの人は、まだ私の好きだった物や好きだった事を
ちゃ〜んと覚えていてくれたんだ!
二人の楽しかった事も、ちゃ〜んと覚えていてくれたんだ!」と
とても嬉しくなりました。
両親に色々と言われても、夫を信じて
小包を待っていて良かった、と思いました。

夫が色々と入れて送ってくれた小包の箱が、今、私の部屋にあります。
どうしても捨てられなくて、段ボールがとってあるのです。
私は、そこに「お土産」を入れようと思い付きました。
今まで、一緒に暮らしていた時は
私のパートのお給料が入ると、何か1つでも良いから
夫にお土産を買って帰ることにしていました。
それは例えばシャツだったりネクタイだったり
寒い季節なら肩当てや暖かい下着だったり、様々です。
今は、夫の好きな猫のグッズやポストカードなどを
その箱の中に入れて行こうと決めました。
そうしたら、なんだか気持ちが少し明るくなってきたのです。
それまでは、可愛い猫のグッズや、夫の好きそうな物を見る度に
「○○さんと一緒だったらなぁ……」と思って
泣きそうになってしまっていたのが
「お土産箱」を作ってからは、そういう物を見付けたら
取り敢えず買ってその中に入れることにしたので
「いつか渡せる日が来る」と思うと
あんまり泣きたくならないのです。
今は、可愛い猫のポストカードと、猫の柄のネクタイが入っています。
これからどんどん増えて行くと思います。
もしかしたら、私の独り善がりなのかも知れません。
でも、いつかこの箱を渡すことが出来たら
夫はきっと喜んでくれる、笑顔を見せてくれる、と思うのです。
私の母などは「今そんなに買ったって渡せるかどうかわからない」と
私がプレゼントを買おうとする度に私を止めます。
でも、今はこの「お土産箱」を渡せるようになることが
私の心の中の目標です。

今、私は、自分の実家で生活しています。
これと言って事件らしい事件は起きません(当然ですが)。
殴られたり怒鳴られたりすることもないので
他の人から見たら、夫の元にいる時よりも
「平穏」に暮らしているように見えることでしょう。
実際、家を出てから、吃るのも食べた物を吐くのもぴったり治まって
4ヶ月ぶりにちゃんと喋れるし
3ヶ月ぶりにちゃんと食べられるし
見た目にも随分ふっくら(ぽってり?)してきました。

でも、心の平穏なんて、どこにもありません。
テレビを見て笑ったり漫画を読んで笑ったりすることはあります。
でも、その度に「どうして○○さん(夫)が一緒にいないんだろう」と
悲しくなってしまうのです。
実家では、私の部屋を一部屋 用意してくれました。
そこは、かつて夫と2人で泊まりに来た時に
2人のために空けてくれていた部屋だったのです。
そこに1人でいると「どうして一緒にいてくれないんだろう?」と
悲しくて情けない気持ちになってしまいます。
何を見ても、何をしても、どこにいてもそうなのです。
どうして、どうして一緒にいてくれないの? と、道を歩いていても
涙が出てしまうことがあるくらいです。
そもそも、家を飛び出したのは私なのに。
道や電車で涙ぐむと変だと思って我慢しようとするのですが
止められないこともしばしばです。
夜になると、どうしても泣いてしまいます。
最近、時々泣かない日もありますが、やっぱり泣いてしまいます。

実家に来て半月くらい経った頃
思い切って自助グループのようなセンターに電話を掛けて
カウンセリングの病院を紹介してもらいました。
「思い切って」というのは、もしもそういう所に電話を掛けて
今の私の状況を話したとしたら
「別れないとダメ」と言われてしまうような気がしていたからです。
それが怖くて、自助グループの電話番号を教えてもらっても
なかなか掛けることが出来ませんでした。
カウンセリングの病院を紹介してもらって
その病院のホームページを見たら良さそうな所だったので
早速 電話を掛けてみたのですが、予約がものすごく混んでいて
2ヶ月近くも先でないと診療を受けられないのです。
DVで心を病んでしまった人がいかに多いか、ということを
改めて思い知らされた気がしました。
今は「カウンセリング待ち」です。
私が、夫からの暴力を初めて受けた時は
正直言って「何がなんだか分からない」という感じでした。
一番初めの時は、私に対しては手を上げずに
家の中で暴れ回って、物を壊したり本棚を投げたりしました。
それだけでも怖くなってしまい
目の前で起きていることが進じられませんでした。
本棚を投げたりしないでしょう、普通……。
2度目の時は、病院に行かなければならないほどの怪我をして
その上、食器などを投げ付けられて粉々になってしまったので
「痛い」「怖い」のほかに
「何がなんだか良く分からない」という気持ちがあったのです。

でも、テレビや映画に出て来て暴れる暴力団やヤクザの人と
違うな、と思ったところは
ああいう人たちは、分かってやっている、というか
例えばある会社や個人に嫌がらせをするために
「どの程度」やるか、とか、「どこまでで止めるか」ということを
かなり意識的にやっている気がするのです。
ある意味で「統制」されているのです。
でも、私の夫の場合は、その「統制」がないのです。
自分の怒りが抑えられなくなって、自分が疲れるまで暴れるのです。
自分の気が済むまで暴力を振るうのです。
私はその度にパニックになり、恐怖で叫び声を上げてしまい
訳が分からなくなった状態で、夫の名前を呼びながら
夫に助けを求めてしまうのです。
夫に対して「もうやめて」という時もありましたが、それより寧ろ
「今、自分は怖い思いをしているから、助けに来て」と
なぜか夫が『正義の味方のヒーロー』みたいに
私を守ってくれる存在に思えてならないのです。
実際に目の前で私に殴り掛かっているのは
ほかならぬ夫なのに……。

そんな中、訳が分からず悩んでいた私を救ってくれたのは
インターネットの掲示板の人々でした。
DV関係のものがないかと検索していたら
ようやく見付けたのです。
600件もあった書き込みを、全部読みました。
それで、思い切って私も、自分のことを書き込んでみたのです。

見も知らぬ人たちが、ものすごく親身になって
色んなことを書いてくれました。
いたわってくれる優しい言葉、厳しいけれども温かい言葉
どれをとっても、ありがたくてありがたくて涙が出そうでした。
あったこともない、顔も知らない私のために……。
家を出た時も、夫と連絡を禁じられて苦しかった時も
沢山の人が私を力付けてくれました。
自らも長い間 夫から暴力を受けていた方や
経験者ではないけれど身近にある、という方や
男性の方などもいました。
本当にどんなに感謝しても足りないくらいです。
インターネットを始めたのは、ちょうど今から2年前ですが
「やってて良かったぁ」とつくづく思いました。
今はDV問題の関係の本も沢山出ていますが
そういう本を買って来たり図書館で借りて来たりしても
家の中の置き場所に困ってしまう、ということもあるし
インターネットでDVのことが見られるのは、本当に良いことです。
身近な人には相談出来なくても、掲示板になら書けるかも知れないし
便利だと思います。

この掲示板の他にも、DVを扱ったサイトは沢山あって
とても参考になりました。
その時は、優しい雰囲気で きれいにレイアウトされた
そうしたサイトを見ると
「すごいなぁ」と思って、そういうのを作る人は
きっと特別なセンスを持った特別に素敵な人なんだろう、と
漠然と思っていましたが
今から思うと、DVから脱出した、または脱出しようとしている
私と同じように迷ったり苦しんだりした経験を持つ人が
一生懸命、他の人にもこの問題を考えてもらうために
作ったんだろうなぁ……、と思います。

そのことに気付いたことが、この日記を書き始める
きっかけとなりました。

夫の実家に逃げ込んだ次の日は、夫の兄の法事でした。
夫の両親と、夫の妹2人と、夫の弟夫婦が集まりました。
私と夫が入籍したのが1月。弟夫婦は3月。
どちらも新婚なのです。
それなのに、夫が来てくれなくて私一人で出ることになって
とても淋しいと思いました。
二人仲良く並んで出たかったなぁ、と思って
仲の良い弟夫婦を見ながら、涙がこぼれそうになりました。
弟のお嫁さんは、私から見たら年も若いし
とっても可愛い女の子で、2人の妹と合わせて
可愛くってたまらない存在です。
妹2人には、前の晩に逃げ込んだから「兄ちゃんと姉ちゃんが
喧嘩したらしい」ということは分かってしまっています。
でも、弟夫婦とは次の日に合流したので
「私の夫は風邪で来られなかった」ということにしておきました。
本当は、2人の妹にも、夫の借金のことや暴力のことは
絶対に知られたくないと思っていました。
だから、夫のお母さんに「何かあったらうちに逃げて来なさい」と
今までいくら言われても、夫の実家に逃げ込むことには
ためらいがあったのです。
でも、とうとうこの時はたまらずに逃げ込んでしまったのです。
この上、弟夫婦にまで気付かれたら大変、と思いました。
弟や妹達は、夫のお父さんが再婚してから生まれたので
夫とも10歳以上年が離れていて
夫は、みんなにとって、優しくて頼りになるお兄ちゃんなのです。
その夢を、私が壊したらいけない、という
そのことばかりで心が一杯になりました。
弟のお嫁さんが、私と主人の馴れ初めを尋ねてきました。
「どっちが先に好きになったんですか?
私達は、私の方が先だったんですけど……」と笑っていました。
私は答えました。
「私の方が先に好きになって
どこに行くにもあとをくっついて行ったの。
でも、向こうは『俺の方が先だった』って言い張ってるのよ」と。
すると、弟のお嫁さんは笑いながら
「やだぁ、それって『のろけ』ってやつじゃないですかぁ」と言って
私をつついてきました。
私は、前の日にあんなにひどい暴力を受けたのに
離れているとやっぱり淋しいんだなぁ、好きなんだなぁ、と
しみじみ思いました。
「どうして一緒に来てくれなかったの?」
「どうして傍にいてくれないの?」と
夫のことが恨めしくなりました。
暴力を振るうことが恨めしいんじゃないのです。
そんなことよりも、一緒にいてくれないことが恨めしいのです。
いつだって一緒にいたいのに。
一緒にいられなくしたのはあなた(夫)じゃいない!
逃げなきゃならなくしたのはあなたじゃない!
そう思って、淋しくなりました。
お父さんもお母さんも、そんな私に気を遣って
とても優しくしてくれます。
近いうちに夫と話をしてくれる、とも言いました。
結婚生活というのは、お互いに協力してやっていくもので
旦那さんが取ったお給料を全く家に入れない、というのは
いくらなんでもひどいよ、と言ってくれて
そのことも息子に言って聞かせる、と言ってくれました。
2人の妹も、とっても可愛いのです。
弟も弟のお嫁さんも、見ていて本当に気持ちのいいカップルで
「こんないい人たちに囲まれて育った夫が悪い人の訳がない」
−−そう思った私は、急に家に帰って夫に逢いたくなりました。
でも、夫は怒っているし、帰ってまた殴られるのは嫌だし……
私は迷いました。
でも、思い切って「なんだかあなたに逢いたくなってしまったので
これから取り敢えず家に帰ってもいいですか?」と
ショートメールを打ったら、一言
「了解!」と返事が来たので
取り敢えず、家に帰ることにしました。
お母さんとお父さんは「何日かいてもいいんだよ」と
言ってくれていたのですが
そんなに甘えていては悪いかなぁ、という思いもあり
また、夫に一昼夜逢っていないから恋しくなってしまったこともあり
「やっぱり帰ります」と言いました。
夫のお母さんは、そんな私がすんなりと帰りやすいようにと
駅まで送ってくれて、夫の好きなおかずを山ほど買ってくれました。
とってもありがたいと思いました。
おかずを抱えて家に帰ろうとしたら、夫からショートメールで
「帰りに猫のごはん買って来て」と入ったので
「あ、あんまり怒っていないんだな」と安心しました。
家に帰ると、テーブルの上に、プリンの空いたカップが
山積みになっていました。
夫は、私をボコボコにし終わって出て行った後
暴力を振るったことを悪かったと思ったらしく
私と一緒に食べようと思ってプリンを買って来てくれたそうです。
でも、私は家を出てしまって帰って来ないし
電話を掛けても通じないし、挙げ句に実家に逃げてるし
やけになってプリンを全部食べてしまったそうです。
夫は、帰って来た私に「ごめんね。もうしない、って言ったのに」と
すまなそうに謝りました。
夫の顔を見て安心し切って私の緊張が解けたのか
急に前日にやられた体の怪我が凄まじく痛み出しました。
それまでは、やはり夫の実家に多少なりとも
気を遣っていたのでしょう。
それが、家に帰って来て、夫の腕の中に戻った途端
気も狂わんばかりに体中の傷が痛みだしたのです。
私は、あまりの痛みにパニックになって
過換気症候群の発作が起きそうになりました。
いつもなら、発作に突入してしまうところなのですが
その日はたまたま病院から貰っていた精神安定剤があったので
それを急いで飲んだら、発作は起きずにすみました。
どうして、暴力を振るった張本人の元へ舞い戻って
夫についていてもらうと安心して気が弛んだり
「傍についていてね」と言ってしまったりするのか
自分でも不思議でなりませんでした。

夫の実家にて

2001年9月10日
夫の(夫を8歳から育ててくれた)お母さんに
電車の中からショートメールを打ちました。
「突然ですが、これから行ってもいいですか?」と。
お母さんはいつも「何かあったらうちに逃げておいで」と
言ってくれていたのです。
夫のお母さんは、夫が初めて暴力を振るい始めた頃から
そのことを知っていました。
私が、痛めつけられて泣いていた時に、たまたま電話が掛かって来て
「どうしたの?」とびっくりしたお母さんから優しい声で訊かれて、
堪え切れずに白状してしまったのです。
「あの子がそんなに気の短い子だとは知らなかった」と言いつつも
いつも私を気遣ってくれて、電話やメールで様子を訊いてくれたり
夫に生活費を入れてもらえない私のために
時々お米やお味噌やお野菜を小包で送ってくれたりしていました。
夫のことを、自分の産んだ3人の子供と同じように可愛がってくれて
夫も、お母さんのことが好きだ、と言っていました。
だから、夫が「親にも言えなかった」と言っていた
膨大な借金のことを夫に内緒で夫のお母さんに
打ち明けてしまっていたことについては
後ろめたい思いも少なからずありました。
その上、こうして夫の実家に逃げ込む、というのは
夫の家族に暴力や借金のことがバレてしまう、ということを
意味しているのですから、夫は怒るかも知れません。
でも、もう私一人の力ではどうにもならないと思いました。
お母さんからは「どうぞ、いらっしゃい」と返事が届きました。
家を出て来る時、何日くらい出ることになるか
まだ決めていなかったのですが
「とにかく今 夫と一緒にいたら危険だ」
「取り返しのつかないことになる」というのだけは
本能的に分かりました。
警察沙汰になるか、新聞沙汰になるか……
いずれにせよ、大変なことになってしまうのは目に見えています。
前の年の秋にも、頭を強打されて記憶がなくなったりして
病院で検査をすることになった時も
「もしも神経が切れていたりして後遺症が残るようなことになったら
この人(夫)とは別れなきゃならないかも知れない。
自分が殴って頭のおかしくなってしまった女と暮らすのは
耐えられないことだろうから」と覚悟していました。
そうなってしまわないためには、一時的にでも
夫の傍を離れなければならない、と思いました。
夫のことが好きで、離れずに暮らしたいからこそ
今は一時的に離れなければ、と思ったのです。
それで、夫の両親に間に入ってもらって話し合いをしないと
自分達だけではもうどうすることも出来ない、とも思ったのです。
夫の実家へは、電車で2時間弱です。
電車に乗って30分くらい経った頃から、携帯電話に
夫から何度も電話が掛かって来はじめました。
でも、私は怖くなって電話に出ることが出来ませんでした。
電話に出たら「もう別れよう」と
言われてしまうのかと思ったからです。
そんなことを言われてしまったら、と考えると怖くなって
電話が鳴っているのをずっと出ないでいました。
夫の実家に着くと、お父さんとお母さんが迎えてくれました。
「まずは、温かい御飯を食べて落ち着きなさい」と言って
美味しい御飯を食べさせてくれました。
でも、お腹を強く蹴られていた私は
折角の美味しい御飯を少ししか食べられませんでした。
実は、私が到着する前に、夫から実家に電話があったそうです。
でも、私が来ているかどうかには触れずに
「風邪をひいたから、明日の法事は行けない」とだけ
言っていたそうです。
お父さんは、私が家を出て今こっちに向かっている、ということを
知っていたのですけれど、わざと知らないふりをして
「○○(私)は来られるの?」と訊いてみたそうです。
そうしたら夫は、実家には行っていないな、と思ったらしく
「あいつは行くって言ってたよ」と、何喰わぬ調子で
言っていたそうです。
御飯を食べていた時に、夫からメールが届きました。
「どこにおるねん。戻って来んのやったら娘(猫)と一緒に死ぬ」
私はそれを読んで「死ぬ」と書いてあったので
すっかり狼狽えてしまいましたが
横から覗き込んだお父さんとお母さんは
「『死ぬ』なんて言ったってホントに死んだりせんから
大丈夫よ」と言って笑っていました。
でも、その少し前に夫が私と一緒に死にたい、と言った時に
「娘(猫)を一人で残して逝ったら可哀想だから
その時は、先に始末しないと駄目なのかな」と言っていたのです。
夫は、ものすごく猫好きで有名で
猫のことは本当に可愛がる人なのに
「始末」なんて言葉を使ったので、私は怖くなってしまいました。
本気なのかしら、と思いました。
だから、このメールを読んでも、笑い飛ばすことが出来ないのです。
「どうしよう、死んじゃったら」「でも今戻ったら危険だし」
2つの思いの狭間で、私は困ってしまいました。
夫の両親は「遠くて大変だけど、勤めもここから通っていいし
少なくとも2〜3日はここにいなさい」と言ってくれました。
初めは「どこの夫婦にも、喧嘩はあるんだよ」と言っていた
お父さんも、喧嘩の内容(暴力のこと)を聞くと
「たとえ○○(私)がどんなにひどいことを言ったとしても
大の男が女の人に手を上げるなんて許されない」と言いました。
夫のお父さんは、弱い者いじめなどが大嫌いな人なので
この夜 初めて息子の暴力のことを聞かされて
とてもショックを受けていました。
考えられない、あってはならないことだ、と言って
一度 息子に会いに行って話し合いをしなきゃ、と言いました。
そのうちに、また私の携帯電話に夫から着信があって
今度は、お母さんが出てくれました。
それで、夫は「ああ、俺の実家に行っているんだ」と分かったらしく
「そこにいるなら別にいい……」と言って
電話を切ってしまったそうです。
体中が痛い私に、夫のお母さんが薬を塗ってくれました。
その夜は、夫のお母さんと並んで眠りました。
10時に意識を失った私が目を醒ましたらお昼前になっていました。
とても信じられないことなのですが、この時点で夫に殴られた記憶は
全くなくなってしまっていたのです。
起きてみたら、隣に寝ている夫がいません。
私が咄嗟に思ったことは「しまった! 今日は会社のある土曜日か!」
ということでした。
それなのに、私は朝御飯も作らないで眠っていて
夫は、私のことを起こさないように会社に行ってしまったのだと思い
とても焦りました。
慌てて夫にショートメールを送ろうとして
全身が、息も出来ないくらいに痛むことに気付きました。
身体を起こそうと思っても、身体が動きません。
「寝違えたのかしら」と思ったけれど
そんな次元の痛み方を遥かに超えています。
私はとても不安になりました。
「会社の日なのに、気付かないで寝ていてごめんなさいね。
朝御飯も作らないで……」という主旨のメールを送りました。
そうしたら、夫からの返事が届きました。
「また記憶を無くしてるよ」と。
この頃はもう、私も自分でも記憶が混乱していることに
気が付いていた頃なので
また何か忘れちゃったのかな、と思いました。
もしかしたら、これだけ痛いということは夫にやられたんだろうか、と
何となくそんな気もしました。
でも、何をされたか覚えていないので、どうしようもありません。
そうこうする内に、夫が家に戻って来ました。
私は、ホッとして(困っている時に夫の顔を見ると、
やっぱりホッとしてしまうのです)夫に助けを求めました。
「朝起きたら、あなたはどこにもいないし、体中は痛いし
どうしていいか分からなくなっちゃった……」と。
すると夫は怒り出し、突然 私の顔をジッと見ながら
「本当は、何もかも分かっているんだろう?」と言いました。
「何のこと?」私は訊きました。
夫は「すっとぼけやがって!」「すっとぼけやがって!」と
何度も何度も言いながら、私をその場に突き倒しました。
そして「今 お前のことをまた(暴力を)やったとしても
10分も眠ったら忘れるんだろう?
都合の悪いことは、すぐに忘れるんだよな、お前は」と
怖いくらい冷静な声で私に言いました。
私は、それでも何のことだか良く分からず、ただ
「また殴られるのかなぁ」「さっきもあんなにやったのになぁ」と
無力感の中でどうすることも出来ずにいました。
体中が痛むので、逃げることも出来ません。
夫の攻撃が始まりました。
手が痛くなってしまったのでしょうか、今度は足で蹴るばかりです。
下腹、鳩尾、横腹、腰、背中、首、頭、腕、太腿……
とにかく体中です。あまりの痛みに、死んだ方が楽だと思いました。
咄嗟に、私の手が傍にあった携帯電話に伸びました。
もしもの時のために、近くの交番の電話番号を登録してあったのです。
でも、交番に掛けようとして、ためらいました。
「このままじゃ殺される」という気持ちも本当なら
「この人は私の夫。どんなことがあっても私が守らなきゃ」というのも
また、本当の気持ちなのです。
その一瞬のためらいが、夫に見破られました。
「携帯を、こっちによこせ!」夫が手を出して来ました。
私は、反射的に携帯電話を体の陰に隠すようにしてしまいました。
取られたら壊される、と思ったのです。
実は、去年の10月にも、助けを呼べないように、と
携帯電話を投げて壊されたことがあったからです。
「いや! 壊されちゃうから、いや!」私は叫びかえしました。
去年の10月に、夫が「俺が壊しちゃったから」と
新しい機種を買ってくれたのです。
夫に買ってもらったその携帯電話は
とても小さくて、可愛くて、私のお気に入りなのです。
それまで壊されるのは耐えられません。
だから、必死で携帯電話を取られないようにしたのですが
「素直に出さないと、ひどい目に遭うけど、それでもいいのか?」と
夫が怖い顔をして言うのです。
そうして、実際に蹴り付けて来ました。
今度は、頭部と、携帯を持った手が狙われました。
私は、携帯を握りしめているのに、どこに助けを求めていいか分からず
ただ泣きながら「やめて!」「やめて!」と言うしかありません。
でも、結局は力に負けて、携帯電話は取り上げられてしまいました。
夫は、後ろのバッテリーをおもむろに外すと
流し台の中に漬けてあった水の入った容器の中に
そのバッテリーを漬けてしまいました。
どうして、そういうことまでしてしまうのかなぁ、と
私は、悲しいやら情けないやらで、もう抵抗する気力もありません。
携帯電話を取り上げられたあとは、ただ黙って夫に蹴られるがまま
何も考えることも出来ず、もう叫ぶことも出来ず
眼は開いていても何も見えず、周りの音も聞こえなくなっていました。
「死ぬのかな」とぼんやり思いました。
再び夫が出て行こうとしました。
「どこにも行かないで」と止めたけれど、行ってしまいました。
私は、どんなに痛いめに遭っても
夫と離れているのが一番 苦手なのです。
どんな時も、夫に傍にいてほしいのです。
傷付いたり落ち込んだりしている時は尚更です。
「だれのせいでそんな目に遭ったか」なんてことは二の次で
夫に手を握っていてもらったり体をさすったりしていてもらわないと
痛みも消えないし、気持ちも落ち着かないのです。
夫もいつも不思議がります。
「俺がやったのに」「『出て行って』と言われるなら分かるのに」と。
でも、理屈じゃありません。
落ち込んだ時の私に必要なのは他の誰でもなく、夫なのです。
それでこの日も思わず「行かないで」と言ってしまいましたが
夫にしてみれば、たった今ボコボコにした相手の傍にいるのは
とても辛いことだったのでしょう。
夫がいなくなったあと、足を引きずり、腰を押さえながら
私は、バッグに荷物をまとめて電車に乗りました。
行き先は、夫の実家です。
夫のお父さんと、夫を8歳から育ててくれたお母さんと
2人の可愛い妹がいます。
ここに私が転がり込んでもいいものだろうか、と迷いながらも
電車はどんどん夫の実家に近付いて行きました。

家を出て来る、丁度10日前のことです。
その日は土曜日で、夫は会社が休みでした。
その何日か前から、夫は身体の具合が悪くて会社を休んでいたので
あまり大っぴらに遊び歩いたりは出来なかったのですが
(本当に具合がすごく悪かったし)
土曜日なら会社も本当に休みだし、体調も少し良かったみたいなので
朝の内は、夫はとても上機嫌でした。
二人とも眼は醒めていたのですが、お布団の中でゴロゴロしながら
休日の朝の特有ののんびりした雰囲気を楽しんでいました。
次の日は、法事があって夫の実家に行かなければならなかったので
のんびり休めるのはその日しかありませんでした。

「どこかに遊びに行こうか?」と夫が誘ってくれました。
「寝てなくて大丈夫ですか? 具合はもういいの?」と私が訊くと
「もう大丈夫」と夫は答えました。
行き先について、いくつかの候補が出たあと
「武蔵野線に乗ってぐる〜っと一周ってのはどう?」と
夫が提案してくれました。
私は、あの長い武蔵野線に、一度でいいから始発から終点まで
乗ってみたいなぁ、と思っていたのです。

「でも……」と私は考えました。
私の夫は、公衆マナーなどにすごくうるさくて
私だってそんなに非常識なことをしているつもりはないのに
「吊り革の掴まり方がみっともない」とか
「網棚にリュックを載せる時の向きが悪い」とか
「大声で喋るな」(そんなに大声でもないと思うのですが)とか
「手摺に寄り掛かるな」とか
「物を食べるな」とか(物を食べるのは良くないかも知れないけど)
細かいことを言うのです。
言うだけならいいいのですが、それで機嫌が悪くなって
ずっと私のことを睨み付けているので
一緒に電車に乗ることが怖くなってしまっていた頃でした。
夫が誘ってくれるのは嬉しいのですが、武蔵野線の始発から終点まで
2時間近くも黙って畏まって乗っているのは疲れます。
喋ったり、寄り掛かったりしてしまうと思うのです。
だから思わず「2時間も『喋っちゃダメ』『食べちゃダメ』で
じ〜っと座ってるのは疲れちゃうからヤだよぉ」と
言ってしまったのです。
「それに、武蔵野線なら明日、法事に行く時に乗るじゃない?」と
私が言うと、夫は「法事にはもう行かない」と言い出しました。
実は、この2ヶ月程前に、やはり法事があって
夫は、1年も前から「この日は空けておいて」と
私の両親に言われていたにも拘らず
前日になって「やっぱり行けません」と断ってしまったのです。
私は「どうしていつもそうやって前日になってから取り止めるの?」と
夫をなじってしまいました。
正確に言うと、その頃は吃っていて言葉が出て来ないと
喉を叩いてしまう癖が付いてしまっていたので
声が出なくなってしまい、紙にそう書いたのです。
すると、夫が怒り出しました。
「しまった!」と思った時は、もう手後れでした。
夫の怒りに火が付いてしまって、止められませんでした。
夫は、いつも仕事で忙しくて、妻(私)に淋しい思いをさせている、と
気に病んでいたのです。
だから、折角の休みの日は家族サービスをしてくれようとして
「武蔵野線に乗りに行こうか?」と誘ってくれたのです。
でも、私が心無い断わり方をしてしまったがために
夫は怒ってしまいました。
「お前はいつもそうやって俺を怒らせるよなぁ」
「今まで我慢してやってたけど、もう我慢出来ねぇよなぁ」と
私の顔をじっと見詰めたまま近寄って来て私の襟首を掴むまでの
ほんの数秒間が、無気味に長く感じられました。
自分でも、気が狂うんじゃないかと思う程の恐怖感が湧き上がって来て
気が付いたら喉が破れるような悲鳴が出ていました。
最初の一発目は、頭を殴られたのだったでしょうか。
それからは、もう堰を切ったように攻撃が始まりました。
蹴る、蹴る、蹴る……。 殴る、殴る、殴る……。
頭を庇えばお腹を蹴られ、お腹を押さえてうずくまれば腰を蹴られ
容赦なく攻撃が飛んで来ました。
「死んじゃうよ」「死んじゃうよ」と泣叫ぶ私に浴びせられた言葉は
「死ねよ」「死ねよ」「死んじまえよ」
「お前のことが憎くて憎くてたまらない」というものでした。
そんなに憎まれているのなら、死んじゃってもいいかなぁ、と
私はすっかり弱気になりました。
でも、そこまで言われても、夫のことが好きだと思う気持ちは
どうしても消せないのです。
怖くて怖くて気が狂いそうなのに、それでもやっぱり好きなのです。
それに「憎い」「死ね」という言葉を私に浴びせる夫の表情の裏に
「こんなことを言っても、こんなに殴っても
お前は俺のことを嫌いになったりしないよな? な?」という
夫の叫びが透けて見えるような気がしていたのです。
殴り終わった夫が外に出て行ってしまうのをぼんやり感じながら
私は意識がなくなってしまいました。
それが、この日の朝10時くらいの出来事でした。

記憶障害

2001年9月6日
夫からの暴力がひどくなってから出始めた症状に
「記憶障害」があります。
自分でも、今 考えると不思議なくらいなのですが
色々なことを本当にすっぽりと忘れてしまうようになりました。
例えば、夫に殴られて蹴られて、息も絶え絶えになっていたのに
一度 意識がなくなってから目覚めると
夫に暴力を受けたことそのものを忘れてしまっているのです。
「どうしてこんなに体中が痛いんだろう?」
「どうして夫がいないんだろう?」
(実は、殴り終わって家を出て行った)
「なんで吐いたものに血が混じっているんだろう?」
(お腹をエレキギターで殴られた)
……など、怖かったことをすっかり忘れてしまっていたのです。
後になって、そのことを話したりすると少しずつ思い出すのですが
直後は何も覚えていなかったりしました。

私の夫は、とても優しそうな顔をしています。
しかも、私が言うのも何ですが結構ハンサムな部類です。
だけど、怒る時、キレる時、暴力を振るう時は
とても怖い顔になって、顔つきが普通ではなくなってしまうのです。
「私さえ(怖かったことを)全て忘れてしまえば
何ごともなかったように、また夫と楽しく暮らせる」と
無意識の内に思っていたのかも知れません。
私を大切に思ってくれている優しい夫と
私に暴力を振るう怖い夫とを
頭の中に同時に置いておくことが出来なくなってしまったのでしょう。
それで、自分にとって都合の悪い方を
記憶の中から無意識に「消去」してしまっていたのだと思います。
「怖い思いをした時には、そういうことは良くあるんですよ。
無意識の内の自己防衛本能のなせるわざだから、異常ではないよ」と
何人の方から言って頂きました。
私も、それはそういうことだったんだなぁ、と思っています。

でも、夫はそうは思ってくれませんでした。
私の記憶障害で一番 傷ついてしまったのは、夫なのかも知れません。
夫は、初めは「俺が頭を殴ったから、そのショックで
記憶がなくなったのかも」と思ったようでした。
早速 病院に行ってCTを撮ってもらいましたが
特に異常はないと言われました。
その時は「自動ドアにぶつかった」と嘘を言って診察を受けたので
お医者様も心因性の要因には触れなかったのです。
初めに記憶が途切れ始めたのは、去年の9月の終わりでした。
それから、たびたび記憶が途切れるようになり
そのほかにも、自分でも怖いくらい物忘れがひどくなりました。
でも、パートの仕事に通っている時などは
仕事のことは別に忘れたりもせず、それなりにこなしていました。
だから、やはり夫に関することを、主に忘れてしまっていたようです。
夫は傷付いていました。
「お前は、俺のことが嫌いになって、それで俺のことを
忘れたがっているから忘れてしまうんだ」と言いながら
辛そうにしていました。
でも、違うのです。
私が忘れたかったのは(もし忘れたいことがあったのだとしたら)
それは「夫の存在そのもの」ではないのです。
「怖い夫」「暴力を振るう夫」「怖い目に遭ったこと」「恐怖心」
−−そういうものを心の中に押し込めて
或いは頭の中から「消去」していたのでしょう。

例えば、こんなことがありました。
夫は、今年の初めに転職をしてから、仕事がものすごく忙しくて
会社に泊まり込みで徹夜で仕事をしなければならないことが
時々ありました。
ある朝、私は夫とちょっとした口喧嘩になって
夫に大きな声で怒鳴られたので、怖くなってしまい
実際に仕事に行く時間よりもかなり早めに家を出たことがありました。
いつもは一緒に家を出て、途中まで一緒に出勤していたのに
その日は私 一人だったのです。
私は、駅の階段でちょっと転んでしまいました。
いつもなら(夫が一緒なら)「馬鹿だなぁ」と言いながら
助け起こしてくれるはずなのに
その日は、たまたま通りかかった知らないおじさんが
「大丈夫? 怪我はない?」と親切に声を掛けてくれました。
(ちょっと恥ずかしかったけど)
だけど、私は困った時や落ち込んだ時や、何かあった時には
いつも夫に頼ってしまうので
「ちぇ。夫が一緒なら、手を引っ張って助けてくれたのに」と
その時も思ってしまったのです。
自分が勝手に一人で早く出て来てしまったくせに
そんなことは忘れてしまっていたのです。
ただ「なんで一緒にいてくれないの?」という思いで
一杯になっていました。
会社のある駅に着いてから、夫にメールを送りました。

《昨日は徹夜だったの? それとも仮眠くらいはとれたのかしら?
お薬は飲みましたか? あんまり無理しないでね》

夫から怒りの電話が入ったのは、それから間もなくでした。
「あのメールは一体 何なんだ? 馬鹿にしてるのか?」
私は、何を怒られているのかさっぱり分からず
ただおろおろするばかりでした。
後になってから夫と話をして、漸く自分の間違いに気付きました。
でもその時は、1時間前に喧嘩をして怖かったことを
すっかり忘れてしまっていて
そんなすっとぼけたようなメールを出してしまったのです。
夫は激怒していました。そして傷付いていました。
「お前は俺が嫌いなんだ」「嫌いだから忘れるんだ」
「俺なんかいない方がいいんだろ?」「いない方がいいんだろ?」
そんなことない、と 何度 言っても、夫は怒っていました。
今 考えたら、怒るのも最もです。
ちょっと前に喧嘩したことも忘れてしまうのですから。
自分の存在そのものを否定されたと思ってしまうのも無理ないのです。

そして、ついに私の「記憶障害」に対して
夫の怒りが爆発してしまう日がやって来ました。
夫からの暴力や暴言に疲れ果て、でも、自分ではそれに気付かず
「なんで吃っちゃうんだろう?」
「なんで食べても吐いちゃうんだろう?」と思っていた頃
何もやる気が起きなくなってしまった時期がありました。
今年の3月の終わりから4月くらいにかけてです。
吃り始めたのは3月の上旬で、吐き始めたのは4月の初めです。
「カウンセリングに行った方がいいかなぁ」と漠然と思い始めたのも
だいたいこの頃でした。
夫は、いつもはとてもいい人です。
これ以上の人はいない、と言い切れるくらい いい人です。
でも、些細なことで怒ります。
だから、傍にいた私は、夫のことが大好きでも
「怒られたらどうしよう」「今度は何のことで怒り出すんだろう」と
びくびくしていたことも事実です。
夫に大きな声を出されると、私の体が勝手に
ずごく大袈裟に「ビクッ」と縮こまってしまいます。
そういうのを見ていると、夫は余計に腹が立つのです。
……勿論、夫の気持ちは良く分かります。
まだ(その日は)暴力を振るった訳でもないのに
ちょっと不機嫌になって大きな声を出しただけで
「ビクッ」とされたら、面白くないに決まっています。
「ちょっと待てよ。何にもしてないだろ?」と思うに決まっています。
だけど、一度でもひどい暴力を受けたことがあると
たとえその時に暴力を受けなくても
もう夫の言うことに逆らえない、というか
夫の言うことやその日の「虫の居所」が
私にとって支配力を持つのです。
絶対的な強制力を持つのです。
だから、体が自然に「ビクッ」としてしまうのでしょう。
そのことで、どれだけ夫を傷付けてしまったか分かりません。
今でも、本当は心から申し訳ないと思っているのです。
でも、その時は「怒られる」→「ビクビクした態度になる」→
「余計に怒られる」→「余計にビクビクした態度になる」という
まさに悪循環の一途を辿っていました。
そんな風に疲れていた頃、暫く(5ヶ月間くらい)治まっていた
夫のひどい暴力がまた ありました。
初めは些細な冗談の言い合いだと思っていたのですが
私の言葉が心無いものだったのでしょうか、夫がキレてしまいました。
「もう我慢出来ない」「もう我慢出来ない」と言いながら
何度も何度も私を殴りつけ、体中を蹴り上げました。
自分の体がサッカーボールのように宙に浮くのが分かりました。
痛みと苦しみの余り、気が遠くなりました。
「いっそ、このまま死んでしまったら楽になれる……」と
薄れてゆく意識の中で感じました。
殴るのを終えた夫が家を出て行くのが、ぼんやり分かりましたが
そのあとは、意識が完全になくなってしまいました。
それでも「死んじゃ駄目だ!」と、いつも自分の中で
自分を引き止めるものがありました。
それは、夫のお母さんの存在です。
私の夫には、お母さんが2人います。
夫を生んでくれて7歳まで育ててくれたお母さんと
夫を8歳から自分の子供と同じように大切に可愛がってくれた
今のお母さんです。
タイプは全く違う二人ですが、どちらのお母さんも
私は心から大好きなのです。
「姑」というと、意地悪そうなイメージがあるのに
私は、きっと日本一 姑に恵まれた嫁だと今でも思います。
優しくて温かいお母さんが二人も出来たのですから。
夫を生んでくれたお母さんは、夫の兄と一緒に暮らしていました。
でも、そのお兄さんは、去年の6月に
病気で急に亡くなってしまったのです。
その時のお母さんの嘆き悲しみを目の当たりにしてしまった私は
(その時が、そのお母さんとは初対面だったのですが)
自分の全てを賭けてでもこの人に幸せにしたい、と心から思いました。
誰かを「幸せにしてあげたい」なんておこがましい言い方ですが
本当にそう思ったのです。
それなのに、夫と私がもし一緒に死んでしまったら……。
或いは私が夫に殴り殺されてしまったら……。
ひとり残されたお母さんはどんなに悲しむでしょう。
今は、夫の存在がどれだけお母さんの力になっているか分かりません。
それを奪ってしまうなんて、許されないことなのです。
「一緒に死のう」と言われるたびに
「殺してやる」と言われるたびに
お母さんの泣いている顔がはっきりと浮かんできました。
もう絶対あんな風に泣いてほしくない、と思いました。
最後の日、家を出て来たあの日、夫の赤く腫れ上がった手を見て
「このままじゃ二人とも駄目になってしまう」と感じました。
「二人で駄目になっちゃってもいいじゃん。もう疲れたよ」と
心の中で囁くもう一人の自分がいました。
でも、それが出来なかったのは、きっとお母さんの泣き顔が
はっきり浮かんで来たからだと思います。
大好きな大好きなお母さん。
夫にそっくりの、きれいなお母さん。
夫のことを目一杯 愛してくれる優しいお母さん。
あのまま私が家に留まっていたら、そのお母さんを
もっと悲しませることになっていたかも知れない……。
そう思うと、少しだけ「出て来たことは間違っていなかったのかも」と
思うことも出来るようになりました。

夫の気持ちは?

2001年9月2日
話し合いが済んだ後、私は暫くの間、虚脱状態になっていました。
それまでは、混乱する気持ちを「とにかく14日の話し合いまで」と
奮い立たせて自棄を起こさないように努めていたのですが
夫が「一緒に暮らす意味がない」と言っていた、と聞いたことで
そして、話し合いの日に夫に会わせてもらえなかったことで
すっかり力が抜けてしまったのです。
「逢いたいよ」「もう一度話をしよう」と毎日のように
携帯にメールが入っていたのに、なぜ急に
「一緒に暮らす意味がない」と言われてしまったのか
訳が分からなくなってしまいました。
20日間近くも連絡しなかったから、怒っているのかとも思いました。

それとも……。
これは、あまり考えたくない想像ですが
殴っていたことが私の親にも自分の親にもバレてしまい
もう思う存分に私のことを殴ることが出来なくなってしまったので
好きなだけ殴れるサンドバッグではなくなってしまった私に対して
興味を失ってしまったのか、とまで思いました。
以前、夫と喧嘩になって殴られた後、鼠蹊部を思いきり蹴り上げられ
動けなくなってしまったことがありました。
暴力を振るい終わって外に出て行ってしまった夫に携帯電話で
「動けないから」と助けを求めたのですが
(怖い目に遭っても、やっぱり頼れるのは夫しかいないのです)
その時に、団地の下にいた夫が
「ここで見ていてやるから、俺のことが好きなら
そこから飛び降りてみろ」と私に言いました。
私は、その時、ベランダにも行けないくらい痛みが激しかったので
(実際、そのあとに鏡で見たら、鼠蹊部に
見るも無惨な、ぶよぶよした大きな血膨れが出来ていました)
飛び降りることが出来ませんでした。
今考えたら、飛び降りることなんか出来なくて当たり前なのに
今回 家を出て来て、叔母に色々と話を聞いてもらうまで
私はこの時に飛び降りられなかったことを
夫に対してものすごく負い目に感じていたのです。
夫のことが好きで好きで、自分のことよりも大切に思って
一緒になったのに、いざとなったら、結局は自分の命が惜しいのか、と
自分のことが猾い人間に思えてなりませんでした。
夫は、よく私に言いました。
「俺は、お前のことを殴ったり蹴ったり馬鹿にしたりして
ひどいことばかりしてきたのに、お前は俺のことを嫌いにならないで
ずっと傍にいてくれてありがとう」と。
私は、「俺のことが好きならそこから飛び降りてみろ」という
夫の言葉を聞いた時に、「ひどい」と感じるよりも寧ろ
とても悲しい気持ちになりました。
夫が欲しいのは、自分に対して注がれる
どんな時にも変わることのない確かな愛情だったのかも知れません。
もしもあの時に飛び降りていたらどうなっていたんだろう、と
そればかり考えていました。
あの時に飛び降りられなかったことが、とんでもない過ちに思えて
悔やみました。(因みに私達の家は、団地の5階でした)
せめて3階くらいに住んでいたら……
そして、落下地点が1階の住人の庭の花壇の中でなかったら……、と
考えても仕方がないことでずっとくよくよしていました。
「あの時、飛び降りられなかったのは、私が悪いんじゃないんだ」
「飛び降りられなくて当然なんだ」「良かった、飛び降りなくて」と
思えるようになったのは、本当につい最近のことなのです。

だけど、この時は「こんなことになるのなら
あの時に飛び降りていれば良かった」と本気で思いました。
最愛の夫に逢えないままこの先の人生を送るくらいなら
一緒にいるうちに死んでしまえば良かった、とも思いました。
或いは、最後にひどく暴力を振るわれて首を絞められた時に
抵抗しないで死んでしまえば良かった、とも思いました。
そうしたら、彼の腕の中で彼に看取られて逝くことができたのに。
彼の顔を見ながら最後の瞬間を迎えられたのに。
「一緒に死のう」と言われたことも、何度かありました。
「お前のこと好きなのに、一緒にいると殴っちゃう。
仲良しでいられるうちに(二人の)手と手を縛って
一緒に飛び降りよう」と。
もう、疲れ切っていた私は「それも悪くないな」と一瞬は思いました。
愛している人と一緒に逝けるなら……、と思ったのです。
そうしないと、そのうち彼が「殺人犯」として
新聞に載る日が来ると思ったからです。
恐らく、私を殺してしまったら、彼もすぐに後を追うかも知れません。
それならいっそ、二人仲良く……、と思ったのです。
でも、出来ませんでした。
「一緒に死ぬより、一緒に生きて行きたい」と頼みました。
どんなに好きでも、一緒に死ぬことが出来ない訳があったのです。
14日になりました。
叔父が知り合いの部屋を借りてくれて、まずは夫と私抜きで
双方の両親と叔父と5人で話し合いが始まりました。
私は、隣の隣の部屋で、叔母に付き添われて待っていました。
夫のお父さんとお母さんの声が聞こえて来ました。
私のことを「本当にいいお嫁さんが来てくれた」と言って
いつもいつも可愛がってくれたお父さんとお母さんです。
私は、こうして逃げて来たことで、
お父さんのこともお母さんのことも裏切ってしまった気がして、
申し訳ない気持ちで一杯で、我慢が出来なくなって
隣の隣の部屋に飛んで行きたくなりました。
でも、事前に、「相手の親に会ったら、間違っても
『殴られたのは私が悪かったからなんです』なんて
言ってはだめなんだよ。
そういう風に言うと、彼が病気だということを分かってもらえなくて
『喧嘩両成敗』みたいなことになったら
彼の治療を受けるチャンスがなくなってしまうんだからね」と
何度も言われていたので、じっと我慢するしかありませんでした。

そのあとで夫が1時間程遅れてやって来ることになっていたのですが
私は「暫く外に出ていましょうね」と言われて
叔母に付き添われて1時間程街をぶらつくことになりました。
その間に、夫を含めて6人で話し合いをして
その後で私を交えて話をする、とのことでした。
でも、1時間後に私と叔母が部屋に戻ると、夫はいませんでした。
夫の両親が泣いていて、私が部屋に入って行くなり
私の名前を呼びながら「ごめんね」「ごめんね」と
謝りながら涙を流していました。
私は、夫に一目だけでも逢える、と信じて
連絡を禁じられても我慢していたのに、夫の姿が見えないことに
すっかり動転してしまって、「(夫は)どこにいるの?」と
泣叫ばんばかりに訊きました。
すると、私の母が、「たった今、帰ってもらったよ」と言うのです。
どうして……!?
一目だけでも逢うことが出来れば、きっと気持ちを伝えられたのに。
夫のことが嫌いになって家を出たんじゃない、とうことを
私はあなたを嫌いになったりしない、ということを
きっと伝えることが出来たのに。
「裏切られた」と感じました。
逢わせてもらえないと知っていたら、何としてでも連絡を取ったのに。
そもそもこんなに長く逢えないことになると分かっていたら
家を出て来たりしなかったのに。
悔やんでも悔やんでも、もう遅かったのです。
助けてくれた人たちに、本当は感謝しなければならないと
心の中では分かっていても、やっぱり「騙された」と感じました。
もう、最愛の夫に逢えなくなってしまったのです。
今まで、連絡を取れないでいた時は、心の中がジリジリして
火傷をしたみたいに痛かったのですが
もう逢えない、と思ったら、体の皮を剥がれたみたいに
体中が本当にヒリヒリと痛み出しました。
どうして帰っちゃったの、と訊くと、
両親と叔父とが、代わる代わる話し合いの様子を話してくれました。

まず叔父が「姪(私)からこういう風に(暴力のこととお金のこと)
聞いているんだけど、ほんとうなの?」と訊くと
「本当です」と答えたそうです。
それから、2〜3のやり取りの後、
「もう暴力を振るわない、って約束することは出来る?」と訊いたら
夫は、黙って俯いていて、とうとう最後まで
「もう絶対しません」とは言わなかったそうです。
自分でも、今まで「やめよう」「やめよう」と思いながら
カッとなると歯止めが効かなくなってしまうので
自分でも止めようと思って止められるものではないらしいのです。
「そんなことで、一緒に暮らす意味があるの?」と私の父が問うと、
夫は俯いたまま小さな声で「……ないと思います」と言ったそうです。
それで、私に逢わせないまま帰ってもらった、ということでした。

家を出て約2週間、私は毎日毎日 泣き暮らしていました。
「もう、暫くは家には帰れないよ」と言われていました。
前にも書きましたが、暴力を振るう夫の元から逃げ出して、
「やっぱり夫のことが好きだから
(或いは、残して来た子供のことが気懸かりだから)」と言って
夫の元へ帰ってしまったばかりに命を落としてしまった人が
沢山いるのだと言われました。
私はこの時、夫のことを愛していると思いながらも、
「夫は私のことを殺したりしない」と言い切れないでいました。
これまでに何度も何度も「死んでしまう!」と感じて
何度も何度も「悪かった、もう絶対しないから」と言われて
それの繰り返しでした。
信じたい気持ちと、怖いと思う気持ちとがごちゃ混ぜでした。
でも、暫くは逢えないとしても、夫に一目でも逢って
今の自分の気持ちを伝えたいと思いました。
突然出て来てしまったので、
「あなたが嫌いになって出てきたんじゃない」ということを
どうしても伝えたかったのです。

7月14日に、相手の両親と私の両親と、私達夫婦と、それに
仲介役として叔父夫婦の8人で話し合いがもたれることになりました。
その時に逢えれば、一言でも話せれば、
夫は私の気持ちを分かってくれる、と思っていました。
それで、その日の来るのを指折り数えて待っていました。
それまでは、夫からの電話に出るのも駄目、
メールを打っても駄目、と言われていたので、
「14日まで」「14日まで」と思ってその日を待ちました。
その間、私は叔父や周りの人から繰り返し繰り返し
「彼は病気なんだよ」「治さないと一緒に暮らせないんだよ」と
噛んで含めるように言い聞かされました。

私も実は、暴力を振るわれている時、
「この人は病気かも知れない」と感じたことが時々ありました。
例えば、初めてひどく殴られた時に、目から火花が飛び散って
やがて(一瞬ですが)目玉が膨らんだように感じて
目が見えなくなってしまったことがあったのです。
(その後の検査では、異常はありませんでしたが)
その時に、「やめて! やめて! 目がおかしくなっちゃったの。
見えないの! 見えないの!」と叫んでしまったのですが、
それでも夫の攻撃はちっとも止むことがなかったのです。
普通なら、殴っていても「目がおかしくなった」と聞いたら
驚いて殴るのを止めると思うのですが、
その日、夫は結局、自分が殴り疲れて気が済むまで
私を攻撃し続けました。
その時、言葉は悪いのですが「この人は狂っている!」と
思ってしまいました。
それなのに、どうして嫌いになることが出来ないのでしょう。

だから、周りの人から「彼は病気だよ」と言われると、
私も素直に頷けました。
そして「あなたも病気になっているのよ」と言われると、
これまた素直に納得することが出来ました。
家を出る3ヶ月くらい前から、私は喋る時に吃ったり、
食べた物を吐いたりするようになりました。
その頃は、夫の暴力が止んでいた時期だったので、
私は自分でも何が原因で吐いたり吃ったりしているのか
分からないでいました。
もしかしたら、気付きたくなかっただけなのかも知れません。
二人とも治療やカウンセリングを受けたら、
また元の仲の良い夫婦に戻って一緒に暮らせる、と
そればかりを思って、そうする内に話し合いの前日になりました。
ところが、前日になって叔父が「やっぱりお前は
明日は彼に逢わない方が良いと思う」と言い出したのです。
「なんで!?」私はパニックになりました。
14日に夫に会逢える、ということだけを心の支えにして
苦しさを乗り切って来たのに、前日になって急に……、と
とてもショックでした。
助けてくれた人達なのに、「騙された!」と感じました。

飛んで帰りたい……

2001年8月27日
4日間ホテルで過ごしたあと、叔父が車で私の両親を乗せて
迎えに来てくれました。
その時になってもまだ、私は
こんなに長いこと家に帰れなくなるとは思いもせず、
何か「話し合い」のようなことが終わったら
夫と娘(猫)の住む家に戻るつもりでいたのです。
ホテルから叔父の家へ向かう車の中で、
私はこれまであったことを全部 白状させられてしまいました。
私自身も、隠し続けることに疲れてしまっていたのかも知れませんが、
それに加えて、叔父や両親から
「この際だからあったことを全部言ってしまいなさい。
隠していたら自分のためにならないだけではなくて
相手のためにもならない」と言われたことが大きかったと思います。
「あなたは気付いていないかも知れないけど
あなたも彼も、二人とも病気なのよ。
病気なんだから、二人とも治らないと一緒に暮らせないのよ」
−−これは、これまで何度も何度も周りの人から言われたことです。
それで、言ってしまったのだと思います。

両親は、夫のことをとても気に入って可愛がっていて
特に父などは「一緒に酒を飲む相手が出来て嬉しい」と喜んでいて、
去年の夏に夫の故郷へ私を連れて挨拶に行く時も、
夫の誕生日プレゼントだと言って、
苦労して航空券を手に入れてくれたこともありました。
それだけに、仲が良く見える娘夫婦の間に
病院に行かなければならないほどの暴力沙汰が何度もあったことに
ショックと怒りを隠せない様子でした。
夫をものすごく可愛がっていただけに、
「裏切られた」という思いが強かった様です。
いつも夫に寄り添って幸せそうに笑っている私が
服を脱いだら体中がアザだらけ、ということに気付かなかったことで
父親も母親も「なぜ気付いてやれなかったんだろう」と言います。
でも、私にしてみたら「どうして隠し切れなかったんだろう」と
今でも悔やむ気持ちがあります。
そんな訳で、私は叔父の家にお世話になることになりました。

夫からは、連日、ショートメールや電話が入って来ます。
「帰って来て」「俺が悪かった」「話がしたい」「逢いたいよ」……
その度に、胸が切り裂かれるように痛みました。
私だって逢いたい。私だって話がしたい。
もとより、嫌いだから出て来た、とか
別れたいから出て来た、とかいうのではないのです。
夫のことが愛しくて愛しくて、
だからこそ、あの赤く腫れ上がった夫の手を見て
「今 家を出なければ、二人ともだめになってしまう!」と
いわば直感したのです。
夫のお母さんからも「どこにいるの?」「心配しています」と
留守電の伝言に入っていました。
私は、この夫のお母さんが大好きで、
お母さんにこんなに心配を掛けているなんて……、と思うと
夫のもとへ飛んで帰りたい気持ちで一杯でした。
でも、DV問題の専門家である叔父の話では、
家を出て来た奥さんが「やっぱり帰る」と言って帰ったばっかりに
夫に殺されてしまった、というケースが跡を絶たないのだそうです。
実際、6月16日に身の危険を感じて逃げ出した私は、
「もう殴らないから」との約束にも拘わらず
19日にまたひどい暴力を受けているのです。
それに、叔父から「今、彼の元に帰るということは
お前を助けてくれた人 全員を裏切ることにもなるんだよ」と言われ、
私は、身動きがとれなくなってしまったのです。
何よりも「彼は病気なんだ。病気のせいで自分を抑えられないんだよ。
お前が彼の前をうろうろしている限り彼は立ち直れないんだよ」と
繰り返し繰り返し言われていたことが大きかったと思います。

「せめて生きてるってことだけでも確認させて」
出て来てから何日目かのメールに、この言葉がありました。

私の夫は、喘息の持病を持っています。
少し前に、同じ病気でお兄さんを亡くしたばかりなので、
私は、「夫が喘息の発作を起こしたらどうしよう」と
いつも心配に思っていました。
(一度、夫が暴れて私を殴ったり蹴ったりしている時に
発作が起きそうになったことがあったのですが
その直前まで「このままじゃ(私が)死んじゃう」と感じていたのに、
その夫の苦しそうな様子を見た途端に
「あ、夫が発作を起こしそう……!」ということで頭が一杯になり、
「あなた、大丈夫? 大丈夫?」と訊いてしまいました。
夫は、緊急用の薬を吸入して、また続きを殴りました)
夫は、いつも私をひどく殴ったり蹴り付けたりした後は
「もうこれ以上 お前の傍にいると、また殴っちゃうから、
何処かに行って死んでやる!」と言って出て行ってしまいます。
私はその度に「本当に何処かで死んでいたらどうしよう!?
自殺しなかったとしても、喘息の発作で倒れていたらどうしよう!?」と
心配で心配で、生きた心地がしませんでした。
それで、夫の携帯電話の留守電に
「帰って来て。お願い、帰って来て」と叫んでしまうのです。
「せめて生きてるってことだけでも確認させて」
この言葉を読んで私は、
夫は今、あの時の私と同じ気持ちでいるのだと思いました。
「生きてるよ」ということだけでも伝えたくてたまりませんでした。
そして、出来ることなら「今でもあなたを愛している」と
一言でいいから伝えてくてたまりませんでした。
でも、出来ませんでした。

6月26日の朝に家を出た私は、その日の仕事を終えた後、
仕事場の近くのビジネス・ホテルに向かいました。
それから4日間、そのホテルに泊まりました。
家を出た朝、実家の母親に電話を掛けて
「家を出て来た」と伝えました。
今思うとどうしてそんなことをしたのか分かりません。
3日くらいで戻るつもりで出て来たのに。
帰らないつもりなんてなかったのに。

実は、1ヶ月ほど前から母親には怪しまれていたのです。
まずは、生活費を貰えていないことが勘付かれました。
夫と一緒に私の実家に行く時も、手土産などは欠かさず、
「そこそこリッチ」なふりをしていたのに何故? と問うと、
「母親の勘だ」と言われました。
続いて、暴力のことも薄々ではありますが、勘付かれてしまいました。
隠していたつもりだったのに、隠し切れなくなってしまったのです。
今思えば隠し続けることに疲れていたのかも知れません。
それで、「今度の給料日にお金を持って来なかったら
一度 家を出て来なさい」と約束させられてしまいました。
でも、問題の25日、夫は生活費を持って来てくれませんでした。
「仕事が忙しかったから銀行に行けなかった」と言うのです。
私は、夫と一緒にいるために、もう1日だけ待とうと思いました。
生活費を入れてもらえないのは今に始まったことではなく、
今回も貰えなかったからといって、急に困る訳ではありません。
でも、次の朝にそのことで口論になり、夫は
「もう給料なんか持って来ない。一銭も渡さない」と怒鳴りました。
そして、トイレのドアが壊れる羽目になったのです。
家を出て来たことを告げると、母親は
「すぐに実家に来なさい」と言いました。
でも私は「週末まで待って。すぐには行けない」と言いました。
すぐには行けない訳があったのです。

それは、10日前に夫に暴力を振るわれた時に出来たアザです。
不思議なことに、その晩は目立ったアザは出て来ませんでした。
その日は、家を逃げ出して、電車で2時間ほどのところにある
夫の実家に転がり込みました。
そこでお母さんが痛み止めの塗り薬を塗ってくれたのですが
その時は「目立った傷もアザもないよ」と言われました。
蹴られている時は恐怖の余り泣き叫び、「死んでしまう」と感じ、
お腹を蹴られて吐いたり、頭を殴られて気持ち悪くなったり、
「もうイヤだ」「もうイヤだ」と思っているのに
過ぎてしまえば、「怖い気持ち」<「愛しい気持ち」で、
一晩だけ泊めてもらっだあと、次の夜には夫の元へ帰りました。
ところが、帰った夜にシャワーを浴びた時、
鏡に映った自分の背中を見て、びっくりしました。
背中も腰も脇腹も、どす黒いアザで一杯なのです。
しかも、強く蹴られたせいで、アザがしっかり
夫の爪先の形をしているのです。
「そう言えば、高校生の頃はサッカー部だったんだよなぁ」などと
妙なところで感心してしまいました。
アザはなかなか消えず、体中がまだら模様で、
とても実家になんか行けなかったのです。

母親は、自分の弟(私の叔父)に相談の電話を掛けました。
彼は、たまたまDV問題の専門家だったのです。
叔父は「実家に行くと押し掛けて来られるかも知れないから
俺の家に来させなさい」と私の母親に告げ、
私は、そこに行くまで、夫と連絡を取ってはならないと言われました。
夫からは連日、「どこにいるの?」「俺が全部悪かった」
「帰って来て」「帰って来て」とメールが入り、
携帯電話も休む暇もなく鳴り続けていました。
でも「今 電話に出て『帰って来い』と言われたら
きっと彼の元に帰ってしまうでしょう?
そうしたら、あなたも彼も駄目になってしまうんだよ」と
周りのみんな(叔父の家族や私の両親)から言われました。
ずっとインターネットで相談に乗ってくれていた方たちも
「今が我慢のしどころ」と言いました。
私は、鳴り続ける電話を歯を食いしばって見つめながら
涙を流して我慢していました。
そんな私を見て、両親は「どうして死ぬような目に遭いながら
そんなに彼のことを恋しがるのか」と訝っていました。

まだ自分が許せない

2001年8月24日
夫と暮らし始めたのは、去年の早春のことです。
今 思うと、僅か1年4ヶ月間のことでした。
でも、私にとってはとても長く感じられました。
……暴力を振るわれるのが辛くて長く感じたのではありません。
もう、ず〜っと何年も連れ添ったかのような安心感があるのです。

暴力を振るわれたのは、去年の7月から約1年間、
その間に、怪我をするくらい大きなのは7回でした。
病院に行った事も5回ほどありました。
首を絞められて気が遠くなり、過換気症候群の発作を起こしたり、
後頭部を殴られた後に記憶障害が出てCTを撮りに行ったり、
お腹を殴られたり蹴られたりして血の混じった胃液を吐き
胃カメラを撮りに行ったり……。
後でも延べますが、夫にはあまり生活費を貰えませんでした。
だから、ただでさえ足りないお金が病院代に消えて行くのが
勿体無くて悲しくてたまりませんでした。

それなのに。
夫の事はちっとも嫌いになれないのです。
「怖い」と感じる事はあっても、嫌いにはなれないのです。
暴力を振るっている時の夫は、目付きも声もいつもと違って、
「手加減」ということもしてくれないし、
夫が疲れて気が済むまで止むことがありません。
「ああ、私は死ぬんだな」と感じた事も何度かありました。
でも、普段はとても優しくて穏やかで、いい人なのです。
見た目にも素敵だし、色々な才能を持った人なのです。
結婚が決まって、家族に紹介した時も、両親も祖母も大喜びし、
「良くこんな素敵な人を見付けたなぁ!」と大騒ぎになりました。
厳しかった父も、口うるさかった母も、手放しで祝ってくれて、
夫に色々買ってくれたり、美味しいお店に連れて行ってくれたり、
こちらが気恥ずかしくなるくらいの気に入りようでした。
だからこそ「実は暴力を振るわれている」なんて
「生活費を入れてもらえなくて私が普段の勤めの他に
アルバイトをして生活している」なんて
とてもじゃないけど言えなかったのです。

私が一緒に仕事をしていたパートナーの女性にはバレていました。
顔や体のアザが見えてしまうからです。
それでも仕事に行かないと生活出来ないし
1日でも休んでしまったら、そこで私の気力が
ぷっつり切れてしまいそうで休めなかったのです。
上唇と下唇のそれぞれ左半分が、
マジックで塗りつぶしたみたいに真っ黒に変色したり、
額が腫れ上がって顔が変型したり……。
今 思うと、そんなのと一緒に仕事をしている方も
たまらなかったでしょうね。
でも、当時は必死だったから、そこまで思い至りませんでした。
アザや怪我のない時を見計らってはお互いの実家に行って
みんなから「二人は本当に仲が良いねぇ」と言われていました。

だけど、私達は決して「仲の良いふり」をしていた訳ではないのです。
長年連れ添った老夫婦のように、
お互いの考えている事が手に取るように分かるのです。
本当に仲が良かったし、気が付くといつも同じことを考えていました。
一緒にいることが自然で、離れるなんて考えられませんでした。
小さい頃からコンプレックスの塊だった私は
夫といることで初めて生き生きと輝くことが出来ました。
殴られても蹴られても、夫を嫌いになれません。
今でも、憎むことも恨むことも出来ません。
暴力を振るった後いつも、
夫は詫びながら「俺の事を殴れ」と言います。
でも、私は出来ませんでした。
「いいから殴ってくれ」と繰り返す夫の声を聞きながら
いつも自分の事を殴ってしまうのです。
夫を殴ることなんて出来ないのです。
「怖い」とは思っても、やっぱり大好きなのです。

でも……。
あの日 家を出て来なかったら、どうなっていたか分かりません。
もしかしたら「最悪の事態」になっていたかも知れないのです。
そうは思っても、夫と子猫を残して家を出て来た自分を
今は自分で許すことが出来ません。
周りの人は、私が夫と離れたことで、最悪の事態をまぬがれた、
これは夫にとっても良かった事なのだ、と言ってくれます。
それでも、今はまだ、出て来たことが良かったのか悪かったのか
自分でも分からないでいます。

運命の日

2001年8月23日
6月26の朝の事でした。
私の物言いに腹を立てた夫が私に飛びかかって来ました。
「殺される」と咄嗟に感じてしまった私は、夫から逃れ
トイレの中に逃げ込み、鍵を掛けました。
鍵を掛けたらもう大丈夫な筈なのに、震えが止まりませんでした。
「開けろ」 夫の押し殺した声が聞こえました。
いつもの大きな怒鳴り声と違って、静かな低い声でした。
「開けろ」 もう一度 夫が言いました。
そして、外からドアをすごい勢いで叩きながら
鍵の掛かっている把手のレバーをガチャガチャいわせ始めました。
鍵がしまっている事は分かっている筈なのに
どうしてそんなに……、と思いながら
上下するレバーを見詰めていました。
そのうち、把手が丸ごとドアから外れかかってきました。
「開けろ」「開けろ」……
このままではドアが壊されてしまうのも時間の問題です。
でも外に出たら今度こそ殺されると思いました。
「殴られるからイヤ」と私が言うと
「出て来ないと、殴るよりもっと酷い事になるぞ。
それでもいいのか?」と夫は言いました。
私が殴られるよりも酷い事……!?
私は、部屋にいる子猫のことを思いました。
まさか、この人は子猫を虐めたりはしない、という思いと、
では、部屋中をめちゃくちゃにするということだろうか、という思いが
パニックになった頭の中を飛び交いました。
家中をめちゃくちゃにされたことが何度もありました。
割れて散乱した食器、飛び散った食べ物、
怯えて震えながら身を縮める子猫……
その時の恐怖が背筋を伝わって来ました。
それで、とうとうトイレのドアを開けてしまったのです。
5cmくらいドアを開けると、夫の睨んでいる顔が見えました。
夫は、ドアの隙間から手を伸ばして、
私を外に引っ張り出そうとしました。
怖くなった私は、また中に閉じ籠ってしまいました。

その時、夫の手が赤く腫れ上がっているのが見えたのです。
私に家を出る事を最後に決意させたのは、
この赤く腫れ上がった夫の手でした。

私は、夫の手が大好きでした。
大きくて、器用で、しなやかで、
温かくて、優しい夫の手が大好きでした。
ピアノやギターを弾く時も、子猫の背中を撫でる時も
コンピューターのキーを叩く時も、私と手を繋いでくれる時も
私は夫の手を見ているのが好きでした。
でも、その同じ手で、夫は私を殴りつけます。
その大きな手で力任せに首を絞められた事も何度かあります。
時にはその手に傘やベルトを握って私を打ち据えます。
そして6月26日の朝、私が最後に見た夫の手は
ドアと鍵を叩き壊したせいで、赤く、痛々しく腫れ上がっていました。

このままでは、二人とも駄目になってしまう。
二人とも病んでいる。

それまで他の人から言われていた事を、初めて自分の心で実感しました。

玄関のドアが大きな音を立てて閉まるのが聞こえました。
夫が会社に出かけたのです。
それでも私は足が震えていて、
なかなかトイレの中から出て来られませんでした。
やっと出てきた時、私は
「このままじゃ駄目だ」「このままじゃ駄目だ」と
うわ言のように呟いていたような気がします。
恐怖の余り、手足が震えて、思うように歩く事も出来ませんでした。
この日は1発も殴られていないのに、
殴られた時よりも大きな恐怖感がありました。
私はまず、夫の食べ残した朝食を片付け
大きな鞄に3日分くらいの着替えとコンタクト用品とお金を詰めました。
そして、夫と私の「愛娘」である子猫を抱き締め、名前を呼び
泣きながら詫びました。
「あなたをおいて家を出て行ってしまうママを許してね」と。

そして、1年と4ヶ月の間、夫と子猫と暮らした家を後にしました。

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